2010年11月16日火曜日

一人でも多くメッセージを届けたい~“自己主張”学んだ国際舞台~ : 宮崎京さん

第1回kopernik パーティーでチャリティラッフルのスペシャルゲストを務めた

宮崎 京 さん

2003年ミス・ユニバース・ジャパン・世界5位入賞)

インタビュー当日、黒のロングのダウンコートと黄色いスニーカー姿でさっそうと現れた彼女は、表参道の雑踏の中でひときわ目を引いた。意思的な目と、凛とした受け答えが印象的な宮崎京さん。素の自分を出すことが苦手だったモデル時代から一転、ミス・ユニバースという世界舞台への挑戦を機に自分と向き合い、言葉で伝える大切さを知った宮崎さんが現在、世界のことをより多くの人に知ってもらうために伝えたいメッセージとは。

(インタビュー・文責:玉懸光枝) 

熊本から東京、そして世界へ

 思えば、大学2年生の時に地元熊本のパルコで開かれたファッションショーがすべての始まりだった。「背が高いし、お洋服好きそうだから、どう?」と大学の先輩に勧められ、「パルコの洋服をいろいろ着られて楽しそう」と、気軽な気持ちで一般モデルに参加した宮崎さん。それが福岡のモデル事務所の目に留まり、スカウトされた。「学業に支障がない程度に」という両親との約束通り、最初のうちはアルバイト感覚で熊本と福岡を往復し、大学もきちんと卒業。しかし、頭のてっぺんから足のつま先まで“売り物”を身にまとい、自分を通してその魅力をアピールするモデルという仕事は「自分だけど自分じゃない不思議な感じ」がして面白く、どんどん魅せられていった。

24歳の誕生日を目前に、モデル業に本腰を入れようと上京。それからは、激流に呑まれたかのようにいろいろなことが起きた。数カ月も経たないうちに、新しい事務所からミス・ユニバース・ジャパン2003」にエントリーするよう指示される。ファイナリスト10人に残ってからは、ナショナルディレクターのイネス・リグロン氏の元で半年間レッスンを受けることになった。

とんとん拍子に進んだように見えるが、実は宮崎さんは最初、「モデルをやるために東京に来たのに、なぜミスコンに出なくてはいけないのだろう」と真剣に悩んだ。モデルであれば主役は売り物で、自分の役目はその引き立て役。「自分だけど自分じゃない」からこそ、ステージの上でいくら歌ったり踊ったりしてもまったく緊張しなかった。しかし、ミス・ユニバース・ジャパンの選考では「知性」「感性」「人間性」「内面」「自信」の5つが問われ、 “宮崎京”という人間をいかにアピールするかが問われる。他のファイナリストメンバーと一緒にレッスンを受けたり、イベントや撮影、パーティーに顔を出してはイネス氏から挨拶や応対の仕方について厳しく指導を受ける毎日は想像以上に大変だったが、コミュニケーションの取り方や自己アピールの方法について学ぶいい機会になった。

それでも、まさか自分が日本代表に選ばれるとは思っていなかった宮崎さん。最終選考が終わったら熊本から見にきてくれていたお母さんを東京見物に案内すると約束していたため、世界大会への出場が決まった時も、まず「お母さんを案内してあげられなくなって困ったなぁ」ということが心に浮かび、次の瞬間、初めて緊張した。


言葉で自分を伝える

1ヵ月後、宮崎さんはパナマにいた。80カ国の代表と事務局メンバーでホテルの1フロアを貸し切り、セキュリティーも女性のみという厳戒態勢の中で、世界大会までの3週間、毎日レッスンが行われたが、撮影でタヒチなどを数日訪れた以外、それまでほとんど海外旅行の経験がなかった宮崎さんにとってはカルチャーショックの連続だった。例えば、宮崎さんが夜、部屋で友達の電話を待っていると、相部屋だった台湾代表が「鳴ったらうるさいから」と受話器を少し上げた状態にして寝てしまったため、電話が受けられなかったこともあるし、明け方5時前に隣室のインド代表がすごい勢いでドアをたたくので慌てて起きると「ジムでジョギングしたいからウォークマン貸して」と言われ、唖然としたこともある。

実はこの期間、各国の代表者たちは名前の代わりに、「USA」「CHINA」「PANAMA」とそれぞれの国名で呼ばれる。宮崎さんも「JAPAN」と呼ばれるたびに自然に「あぁ、私は日本を背負っているんだ」という意識を持つようになった。本番数日前、それを象徴する出来事が起きた。日本でイネス氏からアドバイスされた通り、レッスンでは常に振り付け師の近くに場所を取り指導を受けることを心掛けていた宮崎さんは、本番のステージの立ち位置が発表されたその日、狙い通り審査員席からパフォーマンスをよく見てもらえるポジションを勝ち取った…はずだった。しかし、その後行われた最終リハーサルで、誰もいないはずの宮崎さんの前にさり気なく出てくる人がいる。最初は「勘違いかな」と思っていた宮崎さんだが、やり直すたびにその人が同じ場所に立とうとすることに気付き、思い切って「そこは私のポジションよ」と主張した。「ここで私が頑張らないと、日本の女の子はみんなおとなしくて主張しないと思われてしまう」という思いからだった。「自分の思いや権利を言葉で伝える大切さを自覚した瞬間でした」と宮崎さんは振り返る。

見事、世界5位入賞を果たし帰国した宮崎さんは、「すべての女性の基準となるオピニオンリーダーの創造」というミス・ユニバースの務めを果たそうと、社会貢献の機会を探し始める。国連大学に連絡したのが縁で国連UNHCR協会の協力委員に就任。2004年にはタイとミャンマーの国境近くにある難民キャンプも訪れた。生活環境が整っていなくても懸命に家事と育児をこなし強く生きている女性たち、その一方で、仕事もなく将来への不安と諦めから無気力な眼差しの男性たち、そしてキャンプ外の世界を知らない子どもたち…。「言葉で伝える」大切さを悟ったからこそ、宮崎さんはキャンプで見たことや感じたことを積極的に周囲の人に話したり講演会にも協力することを心がけている。「“ミス・ユニバース・ジャパン”や“世界5位入賞”という肩書きが多くの人々にメッセージを届けるきっかけとなるのなら、それも大いに活用したい」。

現在出演中の舞台(IN EASY MOTION)は、死刑制度についてどう考えるか問う作品だ。“自分を出さず商品を引き立てる”モデルと、“素の自分で勝負する”ミス・ユニバースとの間にあるのが女優で、「演じるベースに普段の生活がある」と考える宮崎さんは、「自分では絶対あり得ない役柄」でも、街を行きかう人々を観察したり自分の暮らしを振り返ることで「自分の中に引っかかるポイント」を見つけるようにしている。実は、“テクノロジーを途上国の人々に届けよう”と謳うコペルニクについても、最初は「あまりピンとこなかった」と言うが、今では「何かを発明することはできないけれど、私がつぶやくことでまだコペルニクを知らない人たちに知ってもらうきっかけになれば」と思っている。

その時その時の目的や相手に応じ、自分をどう表現すべきか常に模索し続けている宮崎さん。彼女の真っ直ぐな眼差しの行方とメッセージ力に、これからも期待したい。

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