~運送業のフロンティアを切り拓く~
株式会社ウインローダー 代表取締役社長 髙嶋 民仁 さん
途上国の無電化村で人々の暮らしを照らしてきたソーラーランタンとソーラーイヤー(補聴器)が2011年3月、東日本大震災の被災地を照らす希望の光となった。「困っている人々の暮らしを救う力になりたい」という人々の思いをテクノロジーという形にして途上国や東北へ届けるコペルニクの活動は、実際に運んでくれる人がいて初めて実現する。コペルニクにとっては、まさに二人三脚のパートナーとも言える株式会社ウインローダー。「運送業」の新たな未来を切り拓く高嶋民仁・代表取締役に情熱と信念の源泉を探った。
(インタビュー・文:玉懸 光枝)
西東京の地に根付く運送業
いわゆる“オーナー企業”の3代目である。太平洋戦争が終わって間もない頃、オート三輪1台で青梅から都内まで荷物を運ぶことから業を起こした祖父母と先代の父の後を継いで、2年前に3代目社長に就任した。本社は荻窪の青梅街道沿いの5階建てビル。ここが昔、祖父母の家だった頃には、玄関の引き戸を開けて左が居間、右が事務所という間取りだったため、幼い民仁少年は、目の前にあった駄菓子屋さんで買ったお菓子をかじりながら、慌しく事務所を出入りするスタッフたちを眺めることが好きだった。
大学に入ってからも、「ゆくゆくは会社を継ぐ」という気持ちに揺らぎはなかった髙嶋さん。しかし、周りの友人たちが就職活動を始める頃になると、すぐにこの会社に入るべきかどうか、初めて迷い始めた。経験を積むという観点から得るものが大きそうな企業を幾つか調べた上で、思い切って父に相談した。それでも、もしその段階で「すぐにうちに来い」と言われたなら、そのまま就職していただろう。だが、父は「それなら外を見て来い」と背中を押してくれた。「将来、経営者になるのなら、数字の勉強ができていろいろな経営者に会えるところがいい」というアドバイスに従い、就職先には銀行を選んだ。
人に嫌われる仕事?
銀行員になって丸2年が経った頃、ある出会いが待っていた。いろいろな企業の決算書を扱うようになった高嶋さんは、ある時、廃棄物の収集運送業を営む企業を担当することになり、あることに気が付いた。当時、バブルが崩壊したこともあり、運送業はどこも著しい減収に苦しんでいたにもかかわらず、その企業は堅調な売り上げを維持していたのである。「同じ運送業なのになぜ?」と興味をそそられ、その理由を尋ねた髙嶋さんに、社長は一言、「人の嫌がる仕事は儲かるんですよ」とだけ言い、微笑んだという。もっとも、髙嶋さんがこの言葉の意味を本当に理解するのは、それから少し後のことになる。
同じ頃、膝と腰に怪我を負い、週末をほぼすべて練習に捧げるほど熱中していたアメリカンフットボールを諦めざるを得なくなった高嶋さんは、空いた時間を使って道路清掃のボランティアを始める。「はじめは、時間をもてあますぐらいなら、という気軽な気持ちだった」が、そこは一本気で何事も全力投球する髙嶋さんのこと。店街から出されるゴミが、いつもカラスと猫によって荒らされ放置されている様子を見て、「きちんとした対策の仕組みを作らねば」と感じ、不法投棄や埋め立て処分場の使用年限、ダイオキシンなど、ゴミを取り巻く問題について調べ始めた。さらに、まだ十分使える家電製品を見付けても、いったん廃棄されたものは勝手に拾ったり持ち帰ったりしてはいけないという規則があることも知り、リサイクルにも関心を持つようになった。ちょうど、「武者修行」の銀行勤務を終え、父の会社に入社する日が近付いていた。せっかく外の世界を見たからには、家業に新たな息吹を入れられるテーマを見付けたいと考えていた高嶋さんは、「これだ」と直感。粗大ゴミを流通させ、日本に新たなマーケットを創るエコリサイクルのビジネスモデルによって物流の新たな展望が拓けることを確信し、社長である父からも、「大いにやってみろ」とエールをもらった。
しかし、である。いよいよウィンローダー社に仲間入りし、「新たなマーケットを開拓し右肩下がりの運送業の未来を一緒に創っていこう」と社員たちに呼びかけた髙嶋さんは、「俺たちはゴミ屋に入ったわけじゃねえ!」と言う低い声を聞き、一気に凍りつく思いがした。日々、現場で汗を流してくれている運転手の言葉だった。「傷つきましたね。つらかったです。自分ではいいことをしようというつもりでしたから」と髙嶋さん。廃棄物処理も運送業も、同じように「モノを運ぶ」仕事だと思っていた髙嶋さんが、以前、廃棄物運送業の社長に言われた「人の嫌がる仕事」の意味を本当に理解したのも、この時だった。
ガチンコ勝負で開いた道
思わぬ壁にぶつかり一度は落ち込んだものの、考えれば考えるほど、「新事業への挑戦はウインローダーにとって不可欠」との思いが日増しに強くなっていった髙嶋さん。同期の仲間もおらず、社員から「オーナーの息子」として特別視はされても、胸のうちを語り合える相手がいないことが、孤独感を増した。
事態打開のために髙嶋さんが採った方法は、体育会系らしいガチンコ勝負で「それでもやろう」と言い続けること。ひとりひとり飲みに誘っては、思っていることをとことん話し合うということを繰り返した。「納得いかない」と席を立った社員のタクシーの前に立ちはだかり、「ちょっと待て!」と引き止めたこともある。「根回しや画策がまったくできなかっただけですよ」と髙嶋さんは苦笑しつつ振り返るが、ともあれ、それほどのバイタリティーと情熱があったからこそ、社員の気持ちも徐々に同じ方向に向いていったのだろう。
髙嶋さんのこうした「ガチンコ」戦法は、実は父である先代社長から受け継いだものだ。基本的に髙嶋さんの方向性を認め、やりたいようにやらせてくれた父だが、実務の上では細かいことまで詰めなければならないことも多々あり、2人で応接室にこもり、取っ組み合い寸前まで議論したこともあったという。しかし、「考えてみればそれが一番勉強になった」と髙嶋さん。そこまで徹底的に話し合うことで初めて、父の考え方、経営哲学、会社への思いをすべて吸収することができた。
その後も紆余曲折の末、髙嶋さんは、モノを運んだ帰りに空になったトラックで不用品や粗大ゴミの回収サービスを行う「エコランド」という形でついに構想を事業化させる。さらに、回収したものをオークションにかけ、売れたらキャッシュバックして再利用を促進する「エコオク」やリサイクルショップでの販売、粗大ゴミを中間処理する「ゼロ・エミッション・センター」、デザイナーの協力を得てデザインなどの付加価値をつける「Re-ariseプロジェクト」といったユニークな仕掛けを次々に展開し、今では先駆的な環境型物流企業として注目を集めるようになった。2年前からは、会長に退いた先代社長の後を継ぎ、髙嶋さんが3代社長に就任している。
運送業は「白いご飯」
そんな髙嶋さんはある日、同氏がオフィシャルパートナーを務めるNPO法人ETICの「イノベーション・グラント」で、支援先として応募してきたコペルニクの中村代表に目を留める。これまで、回収してきた不用品を日本国内でいかに処理するかということに力を注いできた髙嶋さんだが、中村代表の話を聞き、「日本では不用品とされたものでも、世界にはそれを必要とする人がたくさんいるかもしれない」と感じたという。実は以前、髙嶋さんは粗大ゴミとして出される布団を難民キャンプで活用できないかとある団体に提案し、断られた経験があったという。しかし、中村代表との協業は面白いように話が進み、エコオクで落札された収益をコペルニクに寄付する、といった連携が次々に実現していった。
東日本大震災の被災地に届けられたソーラーランタンが夜の闇を照らす
これが大きなきっかけとなり、「途上国支援」にも目を向けるようになった髙嶋さん。「環境」と同じように、「物流」と掛け合わせることでイノベーションが起こせるのではないかと考えている。「物流って、たとえて言うなら、何にでも合う白いご飯みたいなものなんです」。昨年夏には、中村代表を同社の就職ガイダンスのゲストに招いて対談を行った。「以前は”運送”や”環境”というキーワードから入社してくる学生が多かったが、これからは”途上国支援”や”社会貢献”への関心の延長線上で運送を志す人も出てくるはず」と髙嶋さん。そんな人材の行き来こそが新たな組織を作り、社会を変えていく力になると考えている。
業界の枠も既成概念もあっさり乗り越え、フロンティアに立つことを決して恐れない髙嶋さんのゆるぎない眼差しは、われわれをどんな未来に運んでくれるのだろうか。